皆さんはコマフォト(コマーシャルフォト)という雑誌をご存知でしょうか。
大きな書店にはありますが、あまり一般的ではないのでご存じない方もいると思いますが、私が学生時代は毎月目を通していた雑誌です。
ということは40年以上続いている雑誌ですね〜(笑)
もちろん、広告関連の写真雑誌ですが、この雑誌の印刷のクオリティは半端なく美しい。
当時は、家庭画報とコマーシャルフォトは印刷のクオリティの高さから広告写真家を目指す生徒は必ずチェックしていました。
専門的な内容ですから毎月購読する必要はないでしょうが、面白い特集記事があったのでご紹介します。
それは、「白バックの極意」です。
ライティングに興味のある方は、この本は面白くおすすめです。
使っている機材はかなり高価なものを使っていますが、一般的なストロボでも十分活用できますし、ハレ切りや、黒幕などの置き方なども図説されています。
スティル・ライフイメージング(98頁)では、スプラッシュ(水しぶき)撮影の舞台裏も紹介されています。
プロの現場を見ることのできる機会はないでしょうから、参考になると思いますよ。
あとは、この本でイメージして少ない機材でどうするかを考えるのも楽しいですね。
ちなみに、記事の中にあるHMIとは定常光ライティングできる装置のことで、太陽光発電ように明る光を当てることができるかなり高価な設備なので、貸しスタジオでなければ使用することは出来ません。(ストロボだけでなくこういう設備も増えてきたんですね〜)
ニエプスが設計図を引き、ダゲールが組み立てて、遠近法の確立をするために出来たカメラ・オブスキュラを化学作用で定着させる光を描く機械(カメラの語源はここからきています)が、1839年8月19日、つまり、今日から177年前の今日に天文学者で代議士でも合ったアルゴーによって、フランス学士院で開催された科学アカデミーと芸術アカデミーの合同会議の席上で写真術(Photograph)を詳細に発表されました。
この日を記念して、世界的な写真の日となっています。
ちなみに、日本の写真の日は6月1日ですが、これは日本写真協会が定めた「写真の日」で、上野彦馬が1841年6月1日、日本で初めて写真を撮影した日と言うことで、日本写真協会が制定したそうです。
この発表を聞いて、パリの歴史画家ポール・ドラローシェは「これで明日から絵画は死んだ」といったそうです。それほど写真は絵画の世界に衝撃を与えたのです。
そして、現在デジタルカメラとPhotoshopという画像処理ソフトが出現した時に「フィルムは死んだ」と言ったカメラマンがいたそうです。
現在、自由に画像処理できる簡単便利なソフトが生まれてきて、紙媒体からインターネットを通じて誰でも簡単に写真を発表する機会が増えています。
今まで写真家が作品を発表する方法といえば、写真集や個展などでしたが、現在ではインターネットを通じて、個展や写真集の販売数を軽く上回るだけの人に写真を見てもらえる時代がきました。
これを良しとするか否かは結論付けられませんが、粗製濫造も多く、写真の質の低下を危惧する声は多くなっています。
今一度、考えるべきことは、写真は何のためにあるのか、誰のためにあるのかです。
記録することが写真の目的ではありましたが、現在ではそれだけでなく、コンテンポラリーアートとしての「写真」が認知されてきています。
その結果として、アンドレアス・グルスキーやピーター・リクのように3億円・7億を超える価格でオークションで取引される写真もあるのです。
これらは、作品としての価値が認められているという証ですね。
他にも、多くの写真家(アーティスト)が億単位の取引がされています。
これらは、フィルムやデジタルによらず世界的な評価を得ています。
絵画においても、ドラローシェの心配をよそにもちろん高額な評価を得ている作品は沢山あります。
これらが生き残る、というよりより高く評価されてるのは何故でしょうか。
それは、作品にエネルギーが感じられるからです。
抽象的で良くわからない絵画であっても、写真であってもそこにエネルギーを感じるから人は評価をしているので、単純に造形的な美しさだけではありません。
つまり、このエネルギーを感じる作品というのは作者の思い(氣と言ってもいいでしょう)が作品を目の前にすると感じるものなのです。
これらを感じさせる作品とは、単純なソフトでは感じることは出来ません。
作者のエネルギーはそのプロセスを通じて発せられるものなので、既存のソフトや簡単便利機能で撮った作品には感じることが出来ないのです。
簡単便利な写真の世界から、本当の写真とは何か、この機会に考えてみることが大切ですね。
なにかで聞いたことがあります。
全ての答えは自分の中にある。
写真とは何か、本日は内省検討するいい機会です。
写真を趣味とする人なら誰でも考えるのは、簡単便利でうまくいく方法は無いのか?
だと思います。
そんな方法があるなら、是非知ってみたい。
そういう方も多いと思いますが…
実は、あるんです。
でも、教えてくれる人は殆どいません。
何故でしょうか?
教えるにも、そのことに気づいていない人が多いからです。
写真の講師(皆さんの声を多く聞ける立場なので)をしていて、気付きました。
飛躍的に作品が上達する人と、ある程度上達してから完全に進歩が止まってしまう人。
コンテストに数多く入賞しているにもかかわらず、常に悩んでいる人。
実は、写真コンテスト応募が写真のライフスタイルになっている人の全てと言っていいでしょう。
なぜなら、大きな賞を取ると次回はそれ以下では納得できません。
ましてや、後輩が自分よりも上位の賞を受賞したら、自分の価値が下がったと感じてしまう。そう感じないとしても、焦りや苛々が募ります。
趣味なのに、なんでそんなに苦しむ必要があるのでしょうか。
一方、好きでやっているのだから上手くならなくても良いんだ。楽しめればいいので、コンテストにも応募しないし、サークルや教室に参加しても進歩向上を目指すこと無く、シャッターを切っているだけという人も少なからずいます。
もちろん、趣味ですから自由ではありますけど…
本当に、それでいいと思いますか?
それで趣味といえるのでしょうか?
皆さんは、三昧(ざんまい)という言葉をご存知でしょうか。
知っているかというのは、字面の意味を知っているのかということではなく、実践をしているか、身体に染みいるほどに意味を体感しているかということです。
三昧とは一心不乱にその事をすること。
一心不乱とは、一つの事に集中して、他の事のために心の乱れることがないこと。
一方、道楽とは、本人の品位を損ね、自堕落になったり、他人に迷惑をかけたり、家庭環境を破綻させたりするおそれのあるものも含まれる。という言葉もあります。
ということで、趣味の中にはこの2種類があります。
写真を趣味とするならば、やはり写真道楽ではなく、写真三昧のほうが良いですね。
私の知人が、このような名言をいいました。
仕事を極めようとすると趣味のようになり、趣味を極めようとすると仕事のようになる。
この言葉を聞いた時に、至言だと感じました。
前置きが長くなりましたが、写真を趣味として三昧の境地、もしくは、その境地目指している方がこのブログの読者だと思いますので、秘訣を公開します。
それは、構成学を学ぶことです。
写真の構成、構図とは何か、造形デザインを意識して学ぶことです。
現在の写真は、バウハウスデザインの流れをくむ写真家が多く輩出しています。
アンドレアス・グルスキー、石元泰博、杉本博司(敬称略)など、多くの写真家がバウハウスの影響を受けています。
写真を構成する要素やデザインとは何かを知らずして、写真の効果的な構図を捉えることができるでしょうか。
単純に、三分割法や、S字構図、黄金分割程度の知識で、構図の意味がわかるでしょうか。
目の前の状況から、一瞬の判断をして撮影をしなければチャンスを逃してしまう写真なのに、じっくり観察して分割を意識するだけでいいのでしょうか、そもそも構図のバランスが良くても被写体としてイマイチなものをねらって、三分割構図にしたら作品としての価値があると思いますか。
今一度、構図とは構成とは何かを、構成学から学んでみましょう。
そのためには、名作と言われる写真を見ることです。
一流の作品を見ることが大切です。
そして、構成に関する知識と見識をもつ指導者のもとで学ぶことが大切ですね。
情報は、その多さに価値があるのではなく、意味のある情報のみを得てこそ情報の価値がでます。ネットは多くの情報を得ることはできますが、まさに玉石混淆です。
正しい価値を見極めるには、そのための知識が必要になります。
丁度、カメラの説明書を読んでも、そもそもカメラのことをよく知らない人が読んでも意味不明なのと同じですね。
久しぶりの有意義な本に出会いました。
写真とはなにか?
何を基準に撮影をするのか?
今混迷する写真業界にあって、写真とは何かを淡々と語るルイジ・ギッリの語り口はシンプルに写真の本質を語っています。
デジタル全盛の今だからこそ、写真とは何かを考えるのにとても役立つ本です。
この本は実際の講義テープを書き起こしているので、まさに講義を受けている気分にさせてもらえます。
著者の静かな語り口は、決して写真がどうあるべきかということに強制することもなく力まずに伝えていきます。
彼はいいます。「歴史上の偉大な写真家たちが、カメラ一台とレンズ一本とストラップ一本だけで歩きまわり、どれほど素晴らし作品を残したことでしょう」と、まさに至言です。
あくまでもシンプルに撮影する彼のスタイルこそ真の写真スタイルかもしれません。
常に感性の赴くままに撮影しているようですが、写真のメカニズム・知識・技術があってこそ実現されるものであることもこの本から伝わってきます。
是非ご一読ください。
ひとりの孤高の写真家を知り、写真の本質を知ることが出来る名著です。写真の本質を知りたい方には絶対おすすめします。
そして、何度も繰り返して読むことをお勧めします。
構図を極めようとするには知識よりも感性が大切ですが、感性は一朝一夕で身につくものではありません。
逆説的に感じるかもしれませんが、知識や技術を徹底的に吸収することが感性を磨くために必要なのです。
中途半端ではいけません。
徹底的に知識を得る、そして即時実行する。
インプット(知識)を1とすれば、アウトプット(撮影)10は必要です。
インプット(知識)なく撮影するのは、無駄が多く疲れが蓄積するだけで最終的にはモチベーション(やる気)が低下してきます。
アウトプット(撮影)せずに、余計な知識ばかり増やしても頭でっかちの写真情報オタクになるだけです。
例えて言えば、回折現象の知識があるために、絞り過ぎたら解像度が低下するのではないかと心配になり、絞り不足でピントの甘い写真をとっている人や、回折現象も知らずに、やたらと絞ってブレブレの写真をとっている人も同様です。
なんで絞っているのかと聞けば遠いから???
知り合いの自称セミプロから聞いた???
ナンセンスです。
写真は研究と実験の芸術です。知識を得たら実証してみることが大切です。インプットしたら即時アウトプットする行動力が大切です。
高名な経営者が行った言葉が印象に残っています。
この星は行動の星だ。得た知識を蓄えているだけでは、その知識は腐って使い物にならなくなると、至言です。
まさに知識は行動によって裏付けされて本当の知識となるのです。
一流の情報に接して、それを元に行動する。
最近素晴らしい書籍が出ました。以前ご紹介しましたマイケル・フリーマンの最新刊2冊と入門編「デジタルフォトグラフィ」をご紹介します。
これから本格的にという方は、「デジタルフォトグラフィ」
中級レベルの方は新刊2冊がお勧めです。
どんな素晴らしい本であっても、読むだけでなく行動しないと意味がありません。
構図に関する動画もアップしました。御覧ください。
Do it now! がんばりましょう!!
写真関係で最近読んだ本のオススメは、とよく聞かれます。
お勧めは、技術解説や説明のアプローチが上手な海外の作家ですね。
写真の解説本として最も参考なるのがマイケルフリーマンのPhotographer’s EYE、ナショナルグラフィックのプロの撮り方シリーズですね。
特に、構図を極める。露出を極めるは良書です。得にし初心者の方は、こちらをオススメします。
究極の写真教科書ともいえるのが
アンセル・アダムスの写真術シリーズ(3冊)とアンセル・アダムスの作例集です。(ただし翻訳は最悪です。意味不明な日本語は専門用語の直訳のためだと思います)この4冊はすべてリンクしていてモノクロ写真のみならず、写真の全てを知りたい方にはオススメですが、残念ながら絶版になってしまいました。探すなら古書店巡りをしなければならないのと、4冊を揃えないと不完全なのが欠点ともいえます。今現在アマゾンで購入可能なものをリンク貼りました。
Photoshopのレタッチを知りたいならレイヤーズです。この本は簡単かつ効果的なレイヤーの使い方と役割を知ることが出来る良書です。
是非、気になる方は是非ご一読をオススメします。
これらの本全てに共通するのが、日本の写真家がいないということです。日本の写真家の本は、ほとんどが既存の写真概念の焼き直しが多く、新しい視点がありません。つまり、思い切りが足りない感じがしています。
今紹介した本は、基本的な内容のみならず、新しい視点へのヒントも掲載されていますし、写真集としても鑑賞できるほどの作品のクオリティです。
新しい視点や表現に写真の将来性があるので、是非既存の中で写真を考えずに、これらの本を読んで感性を刺激してください。
今回、3つの動画をブログにアップします。
回折現象・撮影モード・プロが絞り優先を使う理由です。
全て、絞りが絡んだ内容です。
写真は「絞り」がキーワードのひとつですね。これは、本当に実感します。撮影会などで聞かれる質問の第一位は、「絞りはいくつで撮ればいいのですか?」です。
そして、よく勉強している人は「回折現象が気になるから、絞り込むことはしません」という意見です。
勉強不足の質問と勉強過多の質問の代表例です。(ちょっと厳しい意見でスミマセン)
写真は知識や技術はとても大切です。
そして、知識や技術が表現に大きく作用するARTでもあります。
しかし、です。
本末転倒になってしまっては意味がありません。
知識は実践によって高められるものであって、それを証明して始めて本当の知識になります。他でも書いていますが、私は学生時代モノクロ現像をありとあらゆる現像液を使って現像しました。そして得た結論は、処方箋による調液と特定のフィルムの組わせで最高の結果を得られるとわかったのです。これは、実験を重ねた結果の成果です。
その後の写真に関しては、この考え方がベースになっています。知識を鵜呑みにせず、実験を繰り返してこそ得られる真理こそ、本当の知識です。
Web講座では、このようにして得た知識や技術を惜しみなく提供しています。
何故なら、知識や技術は鮮度が大切だからです。今得た知識や技術は、今伝えてこそいみがあり、調味期限切れの知識を得ても何の意味もないからです。
よって、講座の内容は変化し続けます。普遍なものもありますが、変わり続けるものもあります。
その中でも、絞りは普遍と行っていい知識だと思います。
この動画はセットでご覧になることで深い理解が得られます。
是非、繰り返しご覧ください。
最近の作品を見て、写真の比率が変わってきていると感じていませんか。
今までであれば、35mmフィルムカメラの比率である3:2が主流でしたが徐々に比率が自由になってきました。
この傾向は益々顕著になっていくでしょう。パソコンや地デジの普及によって、16:9という細長い比率にも眼が慣れてきていますので、今までのように規格化された比率のみでなく、さまざまな比率の写真がでてきています。
コンパクトデジカメでも1:1という真四角な写真比率のモードも有りますし、パノラマ撮影のように細長い比率の作品も出てきています。
しかし、この比率に関しては、写真はかなり寛容でした。フィルム時代から、16:9の比率のカメラもありましたし、6×6という中判カメラもありました。
しかし、大きな違いは、デジカメだと一台のカメラでその全ての比率が使用可能ということです。もちろん35mmフィルムでもトリミングすればいいという意見もありますが、フィルムの場合は、粒状性の問題があり安易にカットすることを戒めています。もちろん、デジタルカメラでも画面のカットし過ぎは良い結果を得られません。
とはいえ、この比率に関してあまりよく分かっていないで使用している人がいます。というよりも全く気づかずにアスペクト比を変更している人もいます。
アスペクト比はなぜ多様にあるかといえば、作品のイメージに合わせて変更するためにあるので、ちょっと余分に写ったからカットするのに都合がいいからではありません。
基本的に1:1を始めとする正方形に近い形のアスペクト比を選ぶときはクラシックな印象のものに合います。
横長な16:9のような細長いアスペクト比は海や雲など大きな横に広がりが大きい被写体によく合いますし、現代的な印象を伝える際に使用すると効果的です。
ただし、16:9のように細長い比率のアスペクト比は縦位置撮影には不向きです。基本的に横位置のみの比率とも言えます。
そこで、縦横兼用として最も適している比率が3:2の35mmフルサイズということになります。横の表現の時には広がりを表現しやすいですし、縦も遠近感を強調したい絵柄の時には、好都合な比率です。
安易にアスペクト比を変えるのではなく、作品のイメージによって変えることが最も良く、基本の設定は最も黄金分割比に近い3:2の比率にしておくほうがいいでしょう。
ちなみに、黄金分割比は1:1.618です。
写真は今後どうなるのか?
ある雑誌の中で写真家やキュレーターなど写真に関わりのある人々がテクノロジーが写真にもたらしたものを特集していました。現在、そして未来はどう変わっていくのか。
さまざまな識者の意見をまとめると、写真は2つの局面を持っているということに行き着くようです。
まずは、インデックスとしての写真です。索引、見出しというような意味です。
つまり、フェイスブックやその他メディアでみる写真は記録や記憶の断片のようで短時間で消滅していくものです。たとえネット上に残っていたりしても、それは時間の経過によって価値がなく、単なる断片化した記録に過ぎなくなってしまうものです。
よって、鮮度が重要なのです。
もう一つは、ARTとしての写真。ARTで写真を捉えるとするなら、記録であっても、そこにはオリジナリティがあり、確たる写真が存在するのです。
その写真とは、プリントということです。
つまり、プリントなくして写真(ART)ではないということです。
プリントの大きさや質感はネット上で再現できないもので、モニタ画面の色は全てが違うと入っても過言ではありませんし、解像度もモニタと写真では極端に質感が違うということです。たとえば、マット紙(無光沢)でプリントした作品をネットで見ると光沢で透過光源で見えてしまいます。
大きさもそうです。作品が1mを超える作品であっても、ネットで見ればモニタサイズ以上に拡大はされません。
よって、実物(オリジナル)を見なければ、作品の価値は分からないということになります。
写真を趣味と考えている皆さんは是非プリントで作品表現してください。
プリントすることによって、写真は生命が宿ると言っても過言ではありません。どんなにモニタ上で美しくともプリントして美しくなければ、写真としての価値は生まれてきません。
作品の息吹をシェア(共有)するにはプリントが必要です。
テクノロジーに変化があっても、仕上がった作品が写真である以上、フィルムであってもデジタルであっても写真であることに変わりはありません。
プリントこそが写真。
そこにはデジタルもフィルムもなく、ただ写真という事実が存在しているのです。
皆さんは写真のイメージを高める工夫をしていますか。
写真雑誌を毎月定期購読している方や、本屋さんで気に入った写真集なり、写真雑誌などを買って読んいる。もしくは、作品展を見に行って刺激を受ける等、さまざまだと思います。
もちろん、これら全ては大切です。
しかし、最も写真表現の血となり肉となるのがスクラップです。
写真雑誌で気に入った写真や記事があっても、その場限りになっていませんか。
もしくは、気に入った写真が掲載されていれば、雑誌ごと保存していませんか。
実はこの方法は、余り意味が無い上に検索時間の問題があります。
その場では、何年何月号であると覚えているのですが、時間の経過とともに忘れてしまいますし、それどころか、写真の存在すら記憶の彼方になってしまいます。
そこでスクラップです。雑誌の中の気に入った写真を切り抜いてスクラップしてしまうのです。
これによって、検索効率が飛躍的に良くなります。
雑誌のように部屋を占領されること無く、スッキリとお気に入りの写真を収納できますし、時折見返すことによって、スクラップを貼った時の気分や傾向を知ることも出来ます。
オススメです。
写真は焦点距離(レンズのmm数)によって決まる。
これは、写真上級者なら納得できる事実です。
写真を趣味としている人は、レンズの構成を標準域を含む標準ズーム(24-80mm)と、望遠ズーム(80-200mm)などを中心に揃えています。
もちろん、更に広角、望遠のズームレンズを揃えている人も沢山いますが、基本的には全ての画角を用意することが多いですね。
風景写真においては、その作品の性格上レンズのラインナップは重要ですが、撮影に際しては、撮影者の撮影しやすいポジションから撮影されることが多く、撮影意図よりも、撮りやすさが最大のポイントになっています。
今回のサンプルは同じ被写体を、レンズの焦点距離を変えて撮影をしています。
左の作品は、苔と緑の葉を中心に緑色の構成で、パースを強調せずに構成して静かな佇まいとしての渓流を表現しています。
右の作品は、左作品の左1/3程度の位置にある苔むした岩(左端の大きな曲がった枝で位置関係がわかると思います)にかなり近寄り、渓流の中に三脚を設置して手前から奥へ遠近感を強調して撮影をしています。
全く同じ被写体で、同じような比率で構成された作品ですが、印象が全く違っているのが分かると思います。
写真は、今回のケースのようにレンズの焦点距離で全く異なったイメージになります。
よって、安易にズームレンズを使って画角を決めるのではなく、撮影イメージを思い描いてから、レンズの焦点距離と撮影距離を決めて撮影する癖をつけましょう。
そのためにはレンズの画角を把握する必要があります。撮影地に着いたら、写真のイメージを明確に作り上げ、そのイメージに沿ったレンズのmm数を決める。
これは普段から意識しないと身につきません。カメラを持っていなくとも、イメージした画角と実際のレンズのmm数がどの程度であるかシュミレーションしてみましょう。これをドライシューティングといい、アンセル・アダムスも推奨しています。
これにより、レンズの把握やイメージの想定ができてくるようになり、写真の仕上げも上達します。
殆どの人は、写真撮影と仕上げ作業は別物だと思っていますが、上級者になればなるほど、仕上げのイメージから撮影をするようになります。
デジタルであれば、レタッチを含めた表現。フィルムであれば、ラボでの現像仕上げを想定して、露出やフィルターを決定する必要があります。
この意味がわかった時、レベルアップへの扉が開いたといっていいでしょう。
※今回のサンプル写真は共に、ISO100、PLフィルターを使用しています。
デジタルカメラと画像編集ソフト(LightroomやPhotoshopがその代表格です)は写真の世界を一変させたといってもいいですね。
カメラのデジタル化とPhotoshopの出現は、写真業界の革命的な出来事です。それは歓迎と批判を伴って、現在まで成長してきました。まさにデジタル革命と言っても過言ではないでしょう。
こう書いてくるとデジタル礼賛とも受け取れる内容ですが、デジタルは決して特別なものであると私は思っていません。
写真は、デジタルであるか否かが問題なのでなく、仕上がった作品によって評価がされるのです。
最近、ドイツのアンドレアス・グルスキーの作品で、ライン川を撮った作品がオークションで3億4千万円という高額な価格で落札されました。
この作品はデジタルです。そして、それより以前ですが、日本の写真家である杉本博司の海景という作品も1億円以上で取引されています。杉本氏は、銀塩フィルムと8×10のカメラで撮影をしており、デジタル処理は一切行っていません。
このように、写真は内容が良ければデジタル・銀塩を問わず高価な価格で取引されているということです。
最近では写真はコンテンポラリーアートのひとつのジャンルとして定着しています。
もちろん、これらの作品の質感や描写力は抜群で、迫力と美しいプリントが魅力であることに疑いはありません。
ところで、話はぐっと身近なことになりますが、最近のコンテストの審査をして感じるのは、粗雑な仕上げが増えているということです。
コントラストがやたらに高い、彩度が高すぎてトーンジャンプしている。シャドー領域を覆い焼きしていない等、とても鑑賞に耐えない作品が目立ちます。
つまり、自己満足の領域を出ていない仕上げになっているのです。
写真は、メディアがアナログからデジタル主流になろうとも、人間は生身から機械に変わるわけではありません。
人が持つ五感、そして、第六感に至るまで昔とほとんど違いがありません。
人が美しいと感じる感性は、生まれながらに持っているそうで、これは学習により感じるものではないそうです。
しかし、どうしたら美しく表現するかは、学習が必要になります。
写真の仕上げが、暗室(Darkroom)から明室(Lightroom)に変わろうとも
表現(仕上げ)することに変わりはありません。
たとえば、ネガに感光された濃度によって階調が再現されるのと同じように、ヒストグラムは光の感光濃度を表しています。
モノクロに使用するフィルターで赤やオレンジ・黄色などのフィルターで撮影をすれば、フィルターと同じ色は明るくなり、補色は暗くなります。
ホワイトバランスは、色補正(CC)フィルターと色温度変換(LB)フィルターと同じです。等など…
これら、フィルムで必要だった知識は、デジタルでも健在です。
というよりも、写真を理解するうえで大変重要な知識であり、スキルになります。
私自身は、フィルム時代に培った知識やスキルをデジタル処理に置き換えて画像処理をしています。ですから、単純にソフトの解説書とは違う処理方法も沢山あり、それを教室やWeb講座で公開しております。
確かに、最近のソフトは長足の進歩を遂げました。しかし、先程も書きましたが、鑑賞するのは機械ではなく人間です。
ソフトやデジタル上では正しくとも、人の目は、細部や全体を見通すことが出来る眼(審美眼)を持っています。
その意味でもクラシック(伝統)を無視して、写真は成立しないと思っています。
sample写真は、全てクリックすることで拡大できます。
注)拡大すると霧にモアレが出ていますが、これはWebサイズに縮小しているために発生しているもので、実際の画像には出ていません。
写真はまずイメージ(完成画像)があり、その完成画像を逆算して撮影に至る。
私は常々このように言っています。
この時に、よく質問されます。
どうしたら完成のイメージを想像できるのですか。
全くイメージが湧きません。
との質問です。
この答えの前に、写真の前提条件について知っておく必要があります。
それは、写真と現実は違っていて、同じ階調・色調では写らないということです。
次に、写真は強調と省略によって表現する媒体であるということです。
よって、見た目通りにプリントしようとすることが、その条件から外れているということです。
その前に、見た目とは何かですが、実は見た目ではなく、感じていたことが見た目であると判断している場合が多いのです。
たとえば、上のサンプル写真ですが、霧が移動してる瞬間をタイミングを変えて撮影しています。
殆どの人は霧の写真だから最も霧が深い時がいいであろうと判断します。
そうなるとsample3ということになりますね。
ところが、この原版はあまり霧の質感を表現するには適していません。
何故ならコントラストが低すぎるからです。
では、ハッキリとしているsample1はどうでしょうか。
これでは、前景の木立がはっきりしすぎて、霧の中という感じが十分に表現できません。
ということで、sample2が最も霧を表現するという意図にあっているタイミングであると判断できます。
このように、単純に霧の撮影であれば、霧がかっていればいいというのではなく、どのタイミングで撮影するか。ということにも意識をおきましょう。
この意識が習慣化すれば、仕上げのポイントが見えてきます。
霧の感じを十分に表現しながら、手前の木立も霞まずにシャープに表現できるタイミングで写真を撮影し、仕上げで強調をしていくのです。
つまり、霞んだ感じは、より霞んだ感じに、ハッキリしている部分は、明瞭に表現していく、全体の画面上重要ではない奥の木立の幹より、中央のダケカンバの白さとコントラストを強調しながら質感を出していく。これにより中央のダケカンバが主役であると表現されます。
つまり、主役にスポットライトをあて、脇役はその主役を引き立てるようにするわけです。この意識があれば写真の仕上げが格段に進歩します。
もちろん、それを可能にするスキルを身につける必要がありますが、まずは主役と脇役を認識する。この意識をもって、構図とタイミングに磨きをかけましょう。
今回はホワイトバランスについてです。
皆さんは、ホワイトバランスの設定を気にしたことはありますか。
デジタルカメラになって、フィルムカメラとは違いホワイトバランスの設定があるので、よくわからない方はオートにしている人が多く、そのために思ったような色が出ないというケースが多々有ります。
最近ではRAWデータで仕上げる方が多く、仕上げの段階でホワイトバランスが変えることができるので、JPGで撮影(JPGは仕上げの際にWB変更は出来ません)するときほど気にすることは無くなりましたが、そういっても撮影時にモニタで表示された色が印象に残りますので、やはりホワイトバランスは設定したほうがいいでしょう。
では、どのように設定したらいいのでしょうか。
おすすめの設定はデーライト(昼光)です。
これは、フィルムに近い色再現がされるので、フィルムと同じイメージで撮影出来るからです。
そして、デーライトよりも赤み(正確に言うとアンバー色)を加えたいなら「曇天」。更に赤みを加えたいなら「日陰」を選びます。このことから紅葉の撮影では、昼光であってもWBを「日陰」に設定する方もいます。
逆に青み(正確に言うとシアン)を加えたいなら「タングステン・白熱灯」を選びます。
夜景などでは「蛍光灯」モードが画面の緑かぶりを抑えて綺麗に撮影できます。
これらの説明でもうお分かりになったと思いますが、ホワイトバランスとは色変換・色補正フィルターを使用しているのと同じです。
特にフィルムからデジタルカメラに移行された方は、W2・W4・C12・FLWフィルター(Kenkoの表記)を使用する代わりに曇天・日陰・白熱灯・蛍光灯にWBの設定をするのだと思えば理解しやすくなります。
逆に言うと、ホワイトバランスをオートにすると、思いもかけないほど色補正がされてしまいイメージとは違った色になったり、夕焼けの撮影で、色が補正されて赤みが弱くなってしまうこともあります。
よって、基本設定はデーライト、場合によってホワイトバランス設定を変更するようにしましょう。この意味がよく理解できれば、RAWデータで撮影をして、仕上げの際にホワイトバランスを変更する方法でも全く問題ありません。しかし、あくまでモニタでの色再現が作品のイメージなるので、設定はオートWBではなく任意の設定をして撮影することをお勧めします。
尚、撮影タイミング的に設定の変更が間に合わないなら、そのままでも結構です。(RAWデータのみ)
フィルムカメラは、メーカーが発売しているフィルムに色調・コントラスト・階調などを依存していましたが、現在のようにデジタル全盛になってくると、メーカーの色調やコントラスト・階調までも自分でコントロールできる時代になりました。
肉眼で見える世界は、見る人の思い込みで階調やコントラストを変えてみています。俗にいう記憶色もそうです。
ほとんどの方は、実際に見た色調を思い出すのではなく、必ず実際の色調よりも彩度が高くなった映像を思い起こします。当然コントラストもそうです。
ほとんどの場合、写真として表現する際に、メリハリが無いと画像がボンヤリと見えるのでコントラストを高く表現したくなります。
その上、フィルムのキャリアの長い方はリバーサルのようなコントラストが写真として適切なコントラストだと感じていますから、コントラストは高めな表現になります。このことが①のような仕上げになる原因です。では、見た目あまり変わらない②はどうでしょうか?
どこが違うか分かりましたか?
はっきりさせたいという意識から、コントラストを高くして、シャープをかけて必要以上に輪郭を強調してしまう例がよくありますが、過度なシャープはブルーム(輪郭に白い筋が見える現象)が目立ち、階調が欠落して美しい写真とは言えません。
かと言って、ボケたようなコントラストない仕上げではインパクトが不足してねむい(業界用語で、コントラストの弱い締りのない画像を「ねむい」といいます)だけの写真になってしまいます。
先に述べたように、写真を美しく仕上げるためには、見た目の印象をいかに効果的に表現するかです。
ですから、撮影したデータから、全体にコントラストを強調するだけでなく、階調を出すべきところは階調をだして、彩度を上げたり、下げたりして色調もコントロールして自分自身のイメージを完成させます。
そういう意味で、デジタルは本当の「写真表現力」が試されると入っても過言ではありません。
では、どうするのか?
それは、表現するべき技術を学び、適正な判断力をもつ上級者に評価してもらうことです。
コントラストを強調する方法がわかっても、それをどの程度にするか、階調とねむいと言われる差はどこが違うのか。思い込みで仕上げをしていないか。様々な要素は、写真を見る目と、それを解決する方法・技術をもっている指導者にのみ指導可能だからです。
写真を評価することができても、PhotoshopやLightroomなどのツールの使い方を知らず、解決策を見いだせない写真家や、ツールの使い方はよく知っているが、写真そのものをよく知らないパソコンインストラクターに聞いても写真表現は上達しません。
※②の作品は下部の緑の階調を出しています。
ソフトの力に頼った表現はなぜ個性的ではないのか?
たとえば、HDR処理です。全ての階調が出ていて、まるで絵画のような表現をした作品は、今までの写真の概念から言うと十分個性的です。
↓ ↓ ↓
もっと身近な例で言うとフィルターです。クロスフィルターを使って光の粒を十字にフレアーさせてキラキラと表現した作品です。
↓ ↓ ↓
http://www.kenko-tokina.co.jp/imaging/filter/cross/4961607352205.html
これらの作品は、サンプル写真としては効果的なのですが、個性的かといえば誰が撮影しても同じように仕上がるため、個性的とは言えない可能性があります。
では、ソフトやフィルターによる表現は、写真としての価値がないのか、といえばそうではありません。
要は、依存しなければいいのです。
一つの表現に他の表現を加えて、新しい表現にすればいいのです。
創造とは、異質なものの組み合わせによって創造となります。
たとえば、HDR処理をして、そこにモノクロ処理した画像をブレンドして
奥行きをだす。コントラストの強い画像とコントラストの弱い画像をブレンドして、表現したい領域を広げると同時に省略をする。
このような、全く違う画像をブレンドすることによって、単一では成し得ない奥行きの深い画像を表現することが可能です。
もう一つ重要になるのは、撮影した画像です。風景写真なのかスナップ写真なのか、イメージ写真なのか、撮影した画像によって処理する内容も変わってきます。作品の内容によって、階調重視・強コントラストで階調を極端に抑えるなど様々な表現方法を学び、試してみて、表現の幅を広げることは、これからの写真表現を考えるうえで、とても大切なことだと感じています。
近頃、流行りのHDR処理。
写真として違和感がある方もいるかもしれません。
写真は記録だから、後で処理するのではなく、そのままがいいのだ。という意見もあります。確かに写真にはその一面があります。
しかし、ARTとして写真を考えるなら、もっと自由に写真を捉えてもいいと思います。
写真は、最も流動的なARTかも知れません。
ダゲレオタイプが写真の主流だった時に、フォックス・タルボットがネガからプリントする写真を発表して批判を浴びました。何枚も作品を制作できるものはARTではないということです。モノクロ写真全盛の時に、カラー写真も同様の批判を浴びました。そして、フィルムからデジタルへと変わろうとしている現在。同じような批判を繰り返しています。
つまり、写真とは固定化した芸術ではなく、常に流動的なものなのです。
そして、その価値を決めるのは鑑賞者と写真家(写真を撮っている人すべて)によってです。
ここが重要なのですが、新しいものが良く、古いものが悪いというものではありませんし、市場規模が大きいから正解で、マイノリティ(少数派)はダメというものでもありません。
ARTとは常に自由であり、表現の自由があってこそARTであるからです。
ところで、HDR処理ですが、この表現は作品のタイプによります。何でもかんでもHDRにして彩度の強調や階調が出ていればいいのではないので、作品として表現する際に、十分な判断が必要とされますし、そのクオリティも問題です。単純にソフトで簡単にできた。というのではディティールに問題がある場合があります。その中でも、偽色が最も注意すべき点です。画像の輪郭部分に全く違った色収差のような偽色が出ていることがよくあります。ソフトというのは、単純にツールを使って全てが上手くいくわけではありませんので、細心の注意を払って仕上げることをお勧めします。
たとえば、コンテストなどでは、審査員は、この部分をまず間違いなく見逃しません。というよりも直感的にわかるといっても過言ではありません。
審査員は、通常プロの写真家です。プロはアマチュアと違って感覚的に写真の本質を見抜く力をもっています。ブレた作品なども一瞬で判断できます。これは、ピントが合っている作品とテイストが違うからです。最近のデジタル作品で多いセンサーゴミも見逃しませんので、作品の仕上げには、十分なチェックをして応募なり、展示会の発表をするようにしてください。
一番よい方法は、写真の指導者やプロにみてもらうことですね。
少し話がズレているように感じるかもしれませんが、HDR処理は、その表現方法の良し悪しよりも、仕上げに良否によって判断されていると考えて間違いありません。
このヒストグラムは霧の中にある木立を撮影したヒストグラムです。
左(図1)右(図2)どちらのヒストグラムが正解でしょうか。
答えは右(図2)のヒストグラムですが、
では左(図1)のヒストグラムはどうでしょうか。
一般的にヒストグラムは
富士山のように裾野が広がるイメージが
適正露出というイメージが定着しています。
しかし、適正露出という観点から見ると
そうではありません。
つまり、
適正露出はその絵柄によって
ヒストグラムの形が違いますし
白っぽい画像の場合は
右のようなヒストグラム。
黒っぽい画像の場合は
左のようなヒストグラムになります。
ちなみにヒストグラムは
縦方向にピクセルの数(下:少ない/上:多い)
横方向にピクセルの明るさ(左:黒/右:白)
を表したグラフです。
よって、右端や左端にこのグラフが
ついてしまうと階調のない画像
ということになります。
なので、撮影するときは出来る限り
左右の端につかない露出で撮影する必要があります。
時にはハーフNDやストロボを使って
その差を埋めるといいです。
言ってみれば
このヒストグラムは
作品制作に必要な情報を
表しているといっても過言ではありません。
もちろん
写真はデータが全てではありませんから
このヒストグラムとカメラの液晶画面を
同時にご覧になり、
理論と感覚を同時に把握して
適正露出を導き出すようにしてください。
具体的には、Lightroomのような
画像処理ソフトを使うことで
その意味合いがわかってくると思います。
尚、解説本ではツールの使い方は
説明されていますが
写真を仕上げるプロセスは
記載されていません。
講座や添削などを受けて
方法論を学ぶことは
仕上げのスキルアップに
欠かすことは出来ませんね。
最後に上のヒストグラムの画像は
この下にあります。
参考にしてください。
※こちらの画像はオリジナルデータで完成画像ではありません。
最近の写真事情についてひとこと。
巷では、すっかりデジタルカメラで写真を撮ることが、主流になりフィルムカメラは益々少数派になってしまいましたね。
このことが悪いとか、間違っているとかを言うつもりはありません。
事実、私自身も現在では99%デジタルです。
しかし、フィルムが古臭いとは全く思っていませんし、フィルムカメラで撮影する瞬間の至福のときはデジタルにはありません。全く撮影するプロセスが違いますし、時間の流れ方も違います。(これは両方経験しなければわかりませんが…)
ですから、フィルムで撮るときは完全にマニュアルです。オートで撮ってはフィルムの面白さがありません。じっくりと露出計で数字を見ながらどのように再現されるか脳内に映像化していく作業は、デジタルで液晶表示で見る画像よりも正確に写真として出来上がっていきます。ちなみに、私の使うフィルムカメラは、ハッセルブラッドですが、あえて露出計なしのプリズムファインダーを使っています。
その理由は、余分な情報は却って邪魔だからです。
実際、じっくりというと相当時間をかけている感じがするかもしれませんが、10秒もかかりません。それは、物理的な時間ではなく、心象的な時間軸と言っていいかもしれません。だから、流れはとてもゆっくりなのです。(これもハッセル&露出計で撮影しないとわかりませんが…)
この至福のときを楽しむのがフィルムカメラの醍醐味ですね。
デジタルは全くプロセスが違います。詳しいことは長くなるので省略しますが、時間の流れ方が全く違います。一言で言うなら液晶画面からの情報を得て、写真仕上げのプロセス(レタッチ)、完成画像が頭に浮かんできます。
写真を始めた頃より思っていた、フィルムカメラの制約の多さが、デジタルによってだいぶ解消されたことは喜ぶべきことで、多くの写真家も同様だと思います。
一方で、ストレートフォトグラフィの美しさも大好きですし、一瞬によって切り取られ、完成するという作品も魅力があります。
つまり、デジタルとフィルムの優劣を問題にするのではなく、好きなスタイルを選べばいいのです。
それより問題なのは、マイノリティを排除しようとする動きです。希少性を悪や古いと考え排除しようとする姿勢は、初期のデジタル登場の時に多くの写真愛好家がデジタルは写真じゃないと言ったセリフと同じです。
そして、写真はプリントしてこそ写真であって、プリントしていない写真は作品ではありません。
つまり、どんなにリアルな映像であっても、五感で感じることができないバーチャルな世界は作品とは呼びません。
ちょうど彫刻を写真撮影し、その写真を彫刻と呼ばないのと同じです。
作品は生きています。作家の息遣いや感性は、作品を直に見ないとわからないのです。アンドレアス・グルスキーの作品が3億円以上の価格がついたのも6mという巨大プリントによってついた価格であって、インターネットの写真を見ても作品の価値が分からないと同じです。
紅葉をはじめ葉を撮る時にどこに注意していますか?
色にだけ注意をして撮影していると、美しく表現できません。
葉の表現に必要なポイントをおさえて撮影すると写真が劇的に変化します。
最近ではすっかりデジタルが主流になり、フィルム派は少数になって来ましたが、これは写真業界にとっては歓迎すべきことです。
こう言うとデジカメが良くて、フィルムはダメだという意味に捉えられそうですが、そうではありません。
デジタルの普及により、フィルム時代では色々な制約があり、イメージを正確に作品に伝えることが出来なかったというジレンマが、かなりの部分で解消されたという意味です。
特にペーパー(印画紙)の種類の多彩さがその一例です。
20年ほど前であればカラープリントといえば光沢プリントしかなく、写真のイメージによっては光沢ではなく、無光沢で仕上げたいと思ってもマットペーパーがなかったので、富士フィルムのエアーマットというスプレーをプリントに吹きつけてマットに仕上げていました。いまでいうダリングスプレーです。
たとえば、バライタといえば、モノクロ専用ペーパーでした。
↓ ↓ ↓
http://www.cosmosint.co.jp/php/papers/baryta.php
その美しい艶と濃淡の再現性はRCペーパーとは比べ物になりません。しかし、仕上げに関しては、とても時間がかかり、多くの手間を必要としました。このバライタペーパー(高価ではありますが)を現在では、インクジェットでカラープリントできる様になりました。しかも、特に手間を掛けずにプリント出来ます。
すべての写真に合うわけではありませんが、絵柄によっては、このバライタペーパーでプリントすることで、シックで落ち着いた印象と油絵のような艶感が表現されて、とても美しい作品に仕上がります。
最近では、フレスコジクレーというフレスコ画と同じテイストを持つペーパーも登場しました。このように様々なテクノロジーの進化は写真表現の自由化が益々進むと同時に、銀塩写真の最大のデメリットといわれる保存性の問題を解決しました。
↓ ↓ ↓
これらの進歩によって、写真は多彩な表現が可能になるだけでなく、芸術の基本ともいえるアーカイバルについても問題を解決してきています。
作品が200年から300年を経ても文字通り色褪せない。
写真を制作する意欲が益々高まる時代になって来ましたね。
写真といえば、真実を写すものという意味。
だから、写真は加工したり、修正したりするものではない。
こう考えている人が多いですね。
確かに、カメラは撮影したものを正確に描写できる機械ではありますが、そこには限界もあります。
それは、明度の再現に欠かせない露出のラティチュード(許容度)が非常に狭いということです。
写真は、カメラという機械で撮影をし、フィルムやセンサーに画像を定着させるわけですが、そこには肉眼で見たものの全てが写るわけではありません。
思ったよりも、シャドー部が暗く潰れた、ハイライト部が白く飛んだ。実際の撮影現場で見えているものが、写らないからといって、それが真実だと言えるでしょうか?
そもそも、写真の語源であるPhotographとは真実を写すという意味ではなく、光を描くという意味です。
だからといって、画像処理ソフトのテクノロジーに頼りきってしまうのも作品制作とはいいがたいですね。
なんといっても主体性がないものは作品とは呼べませんし、ソフトに頼りきった画像処理は品格がなく、審美性にも乏しい。
写真はだれでも簡単に始められるし、現在の画像処理ソフトの性能はおどろくべきものです。今まででは考えられないほど、飛躍的に処理レベルが向上しているし簡単に美しく仕上げることができます。
しかし、簡単に自分の手で仕上げることが出来るからこそ注意が必要です。
リバーサルフィルムで撮影している人は、撮影後仕上げをプロの手に委ねる。しかし、デジタルは自分で仕上げる。
この差は、とても大きいのです。
プロやハイアマチュアなど、写真プリントとはどういうものかを知っている人たちは、デジタルで仕上げる際に、細心の注意をしてプリントを仕上げています。それだけでなく、仕上げで再現可能な範囲を理解したうえで撮影しています。
ですから、ハーフNDやPLフィルターなども使用します。
つまり、イメージを具現化するために必要な道具を使用して、仕上げのイメージを想定しながら撮影をします。
そこでは、何もしないということはありません。
もちろん、作品のスタイルにもよりますが、報道的なドキュメンタリーはそのような考え方は必要ないかもしれません。しかし、風景やスナップであっても、効果的な表現をするならば、時には濃度の調整などが必要になります。
そのためには、どうしたら良いのか?
まずは、カメラの機能、露出の意味など、撮影に関する知識と実技を繰り返し練習して、感覚をカメラにダイレクトに伝えることが出来るようになりましょう。
では、どういう練習がいいか?
それは、撮ってから考えることです。
逆はダメです。考えながら撮っている人がいますが、これは逆効果です。まだ、何も考えないで撮影したほうがマシです。
何より、考えながら撮ったら楽しくないですよね。
写真というのは感動しながら撮ることが大切で、考えながら撮ると感動が遠のいてしまいます。
感動しながら撮ろうとすると、いろいろな操作を忘れてしまう方は、撮影回数が少ないからです。
もっと、もっと撮りましょう。
そして、仕上がりを見て何が不足していたか、上手く行ったかをチェックしましょう。結果には必ず原因があります。
自分で考えても分からないときは、写真の知識があり、偏りがなく、的確な指導をしてくれる上級者(プロ)に質問しましょう。
決して、同じレベルの人には聞かないことです。
聞きやすさより、耳に痛くとも的確な回答をしてくれる人に尋ねましょう。
先日のまぐまぐメルマガでも述べました被写界深度について、問い合わせを何件かもらいましたので、もう少し詳しく説明します。
被写界深度は同じ画角のレンズを使った場合、フォーマットが小さいほうが被写界深度が深く、フォーマットが大きいほど被写界深度は浅くなると述べました。と言うことは被写界深度はフォーマットサイズが小さいほうが被写界深度は有利ということになります。(フォーマットサイズ=センサーサイズ)
単純に考えたら、大きいカメラを使うよりも小さいカメラのほうがピントはいいのではないかと思いますね。
確かに被写界深度=ピントと考えればそうかもしれませんが、写真のピントは被写界深度の深さだけでシャープ感を感じるわけではありません。
一般に、ピントがいいという言葉は被写界深度を表しているのではなく、解像度・コントラスト・トーン・ピント位置などが全てバランスよく揃ってピントがいいと感じるわけです。
同じカメラで、画角・絞り・ピント位置が同じでも、廉価版のレンズと高級レンズではピントは違って感じます。高級レンズは、ピントの結像がキリッとシャープなだけでなく、コントラストも十分あり、階調も豊かです。
写真を大きく伸ばした場合、センサーサイズがAPS-Cサイズとフルサイズ(35mmサイズ)であれば同じ被写界深度であれば、フルサイズのほうがピントがよく感じます。(解像度・トーン)
他にも被写界深度が深くても、どんより曇ったときは、晴れた日よりピントがシャープに見えませんね。(コントラスト)
そして、ここが重要なのですが、ピントの合わせる位置によってピントのシャープ感が違って感じます。手前のピントが甘いと、画面の奥がシャープであってもピントがあっている写真に見えませんし、すこし画面奥が甘くても、手前がピシっとピントが来ていると奥のピントの甘さはさほど感じません。
ですから、風景写真のプロやベテランはわざわざ被写界深度の狭い中判カメラを使って撮影するわけです。
大判カメラにいたっては、アオリが効くので被写界深度を調整して深くすることができます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%8A%E3%82%8A_(%E5%86%99%E7%9C%9F)
これにより、アオリなしの単純な数値上の被写界深度よりも深くピントをあわせることが可能になり、フォーマットサイズの大きさから細密な質感描写や豊かなトーンをも実現できるのです。
もちろん、言うまでもありませんが、ピントや質感・トーンがすべてが揃ったからいい作品というのでもありませんし、作品の内容によっては、この全てが揃わなくてもいい作品はあります。
絞りに関しても回折現象を気にせず、絞り込む写真家もいます。この件に関しては、デジタル処理によってシャープやコントラストを改善できるので問題ないともいえます。
これは作品スタイルによって違ってきます。
よって、あなたにとって最も重要視する点はどこか?ということからカメラを選び、レンズや絞りも決定するようにしましょう。
ピントや質感を重視したいのにコンパクトカメラを使っているのであれば、どんなに頑張って画像処理しても、フルサイズカメラの質感を出すことは不可能です。
ヒストグラムというとデジタル特有のもので、フィルム写真とは全く別物。
という印象の方も多いと思いますが、輝度や色を棒グラフで表したものなので、決してデジタルだけのものではありません。
勿論、フィルム写真の場合は、ヒストグラムを意識して撮影しているわけではありませんが、アンセル・アダムスによって提唱されたゾーンシステムも、ある意味ヒストグラムに共通する作品制作のプロセスといっていいかもしれません。
スポット露出計によって導き出された露出の輝度を仕上げのプリントにリンクさせる技術がゾーンシステムなら、ヒストグラムもまた、仕上げのイメージを導き出すプロセスのひとつといっても過言ではありません。
あまり、理屈が先行すると先を読むのが辛くなるでしょうから、今回のテーマであるヒストグラムについて参考になる見方、考え方について説明をします。
まず、ヒストグラムは完全になだらかな山型で左右が両端についていなければならないという誤った観念を取り去りましょう。
確かに、標準的な被写体を撮影する場合は、この基本的な形がいいでしょうが、コントラストが極端に少ない。もしくは、極端にある場合は、全く違う形になります。
よって、どんな被写体を撮影しているかで、ヒストグラムの形は変わってきます。
これは、インターネットや写真の解説本にも出ていますから、理解している人も沢山いるでしょう。
実は、ヒストグラムの活用はそれだけではありません。
ほとんどの方は、撮影後のカメラの液晶モニタを、明るさや色基準としてみていますね。これは、要注意です。
なぜなら明るさは相対的であるからです。
以下の画像を見てください。
↓ ↓ ↓
http://web.mit.edu/persci/people/adelson/checkershadow_illusion.html
一見するとAとBの明るさは全く違って見えますが、実は同じ濃度なのです。
つまり、人はものを常に相対的に見ています。よって、まわりが明るい時はモニタの色が暗く見えますし、暗い中ではモニタは明るく見えるのです。
そんな時に役に立つのがヒストグラムですね。
グラフの形状は環境の明暗差に関係なく、輝度の分量をグラフで表してくれます。
さらに、ここからが重要なのですが、写真の仕上げに最も適した露出はどこか?
というポイントを探す際にも役に立ちます。
この使い方こそ、アンセル・アダムスのゾーンシステムに近い考え方だと思います。
今ではすっかり使用する機会は減ってきましたが、私自身、フィルムカメラの場合は、上図のような写真撮影時には、ハーフNDを使用して露出をギリギリのアンダーに撮影して、仕上げで明度・色調やコントラストを調整して作品をつくっていましたから、スポット露出計は欠かせないツールでした。
今では、デジタルカメラのヒストグラムがこのスポット露出計の代わりに役立っています。
勿論、フィルム(厳密に言うとフィルムもメーカー・種類で違います)とデジタルは特性が違いますし、露出の決定値も違えば、ラチチュードも違いますから、全く同じではありませんが、写真を撮影するということは、作品を制作するという意味なので、撮影時から仕上げの作品をイメージしてシャッターをきることは当然で、シャッターを切ったら写っちゃった。
というのでは、厳密な意味で作品制作とはいえませんね。
そうはいっても、この偶然が写真になるのも写真の魅力の一つですから、決して悪くはありませんが…
ただ、諺にあるような「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」ということは現実には殆ど無いということをお伝えしておきたいと思います。
具体的な撮影プロセスについては、下の動画を御覧ください。
今回はちょっと難しかったですかね^^;
よく教室で「何がいい写真ですか?」と言う質問があります。
いい写真とは何か?どういう写真がいい写真なんでしょうか?
コンテストに応募しているのに賞に入らなかったので、いい作品ではないのでしょうか?等、沢山質問されます。
まず、はっきり言えるのがコンテストでの写真の評価と、良い作品というものを同系列で考えないことです。
コンテストでは審査員の目を引く写真が入賞しますので、選外になった作品が他のコンテストに応募したら入賞するということもあります。
さらに、審査員が作者の意図以上の評価をすることもあります。このようにコンテストでは、選者によって作品の価値基準が違ってくるのです。
よって、作品が入賞するかしないかで一喜一憂する必要はありません。
勿論、審査員の中での基準はありますし、その基準に沿って賞は決められるので、確かに賞に入った作品というのは良い作品といえます。
写真の表現は多岐に及びます、たとえばスナップ写真しか撮ったことのない審査員にアブストラクト(抽象表現)は理解できるでしょうか。また、理解できたとしてコンテストの趣旨と違っていれば選ばれることはありません。
ここで、写真の本質の話をしましょう。
結論を言うならば、写真は自分が表現したいことを的確に映像で表現できた時に成功したといえます。
つまり、いい写真ということになります。
更に言うなら、このいい写真の基準も自分自身のレベルがアップすると、写真の見方が変わり自分自身の評価も変わってきます。
だからこそ、人が評価することが大切なのでなく、自分が表現したいものを表現する。この姿勢が大切なのです。
ただし、写真の知識・技術を含め、あらゆる表現を学ぶことが大切で、広い視野を持つことによって写真の本質が見えてくるのです。そのためには良い指導者が必要です。皆さんが表現したい作品を正しい方向に導いてくれる指導者の存在があれば、安心して自分の作品レベルを向上させることに集中できます。
このようにしてクオリティが向上した時、他の人からも良い評価が得られるようになります。
すなわち、良い作品とは多くの人が共鳴できる作品のことといえます。
最後に写真は、芸術と芸術でないものが有ることを理解してください。
芸術とは、創造性があり作者の意図が的確に表現できている作品で、芸術でないものは被写体に依存した作品です。
そして、コンテストは芸術性を評価するだけのものでは無いということです。
カメラを使いこなす。
写真を撮影する際に最も大切なことです。
こなすという字は「熟す」という字を書きますが、まさに熟していなければならないのです。
それではここで質問です。
1.露出補正のボタンや操作の位置を知っていますか?
2.多重露光の設定はできますか?
3.ホワイトバランスの設定はすぐに出来ますか?(デジカメ)
4.露出とピントのマニュアルは違う操作であることを知っていますか?
5.AEロックのかけ方を知っていますか?
6.フォーカスロックの仕方を知っていますか?
7.測光モードで露出が変わることを知っていますか?
8.マニュアル撮影での(カメラ測定での)適正露出はどのように操作したらよいか知っていますか?
9.バルブ撮影の設定の仕方を知っていますか?
10.ファインダーから目を離さずに、露出補正・AEロック・絞りやシャッターの変更・フォーカスロックができますか?
以上のすべてにYESと答えられた方は、基礎レベル合格です。
まだまだ沢山知らなければいけないことや、操作できなければいけないことはありますが、最低このレベルは必要ですね。
この中で最も大切なのは、10のファインダーから目を離さずに操作できるか?という問いです。
写真は、カメラという機械を使って操作すると同時に、瞬間を捉える必要があります。たとえ動いていない被写体であっても、ファインダーを覗いて作品をイメージしているわけですから、そのイメージを定着させる(露光する=シャッターを切る)時間は短時間でなければなりません。少なくとも3秒以内にすべての操作を終了させなければイメージはボヤけてしまいます。
この操作の段階で5分も6分もかかったらどうでしょうか?
頭のなかは操作することで一杯になり、作品以前の状態になってしまいます。
これでは思い通りの作品はできませんよね。
ですから、カメラの使い方に習熟する必要があるのです。
つまり、カメラの操作に頭を使わずに済むレベルまでカメラの使い方に慣れ、目をつぶっていても出来るぐらいになると、写真を撮ることに集中できるようになるのです。
人は一つのことに集中していると、他のことが頭に入って来ません。
たとえば、怒りながら楽しいことを考えることが出来ないですよね。
だから、カメラに慣れる必要があるのです。
最後に、カメラを使い熟すというと隅から隅まで知らなければならないと思っている人がいますが、そんな必要はありません。
まず、上記の質問10を出来るようになってください。
あとは、撮影時に手間がかかった操作を慣れるようにすることです。
この操作を慣れるためには家で練習することも必要ですが、撮影現場で出来なければ意味がありません。
操作は机上の空論であってはならないのです。
ドンドン撮影に出かけて、カメラを使い熟せるようになってください。
コメントお待ちしております。
それでは良い作品を!
現在、写真の世界はまさに大きな改革が行われているといっても過言ではありません。デジタルが主流になり、従来のような銀塩カメラによる伝統的な表現から、安易で簡単、そして多様な表現が可能なソフトの開発がそれを助長しています。これらの現象を軸に新旧の思いが語られますが、写真の本質は変わらないのというのが、私の持論です。
元来、写真史は改革の歴史であって、そのたびに論争が起きて来ました。ネガを使わないダゲレオタイプからフォックスタルボットによるネガの開発、モノクロからカラーへの変遷、ネガフィルムからポジフィルムによるダイレクトプリントの普及など、数え上げればきりが無いほど改革されてきました。
では、写真の本質とは何か。
これは、好きなスタイルで表現することにほかならないのです。デジタル主流になった今でも、プラチナプリントやバンダイク法でプリントしている作家もいるし、デジタル撮影したデータからネガを作成して、モノクロ銀塩プリントをしている作家もいます。4×5フィルムや8×10フィルムで撮影して、極細密なプリントにより立体的な質感に仕上げる人もいます。要は、何を表現の主たるものにするかが大切なのです。それぞれが好きなスタイルで撮影することが写真であり、機材の新旧は全く問題ないのです。
逆に言うと機材の新旧をとりまく論争は、全くナンセンスです。
写真は自己表現であり、表現とは完成した作品だけでなく、機材のチョイスにはじまり、撮影における時間の流れから仕上げの方法に至るすべてをもって写真であるということです。
最後にひとこと、
とても重要なことです。それは、ソフトに依存した作品は作品というには程遠いということです。見た目に同じような仕上がりになったとしても、作品を仕上げるに際しては作者の「思い」が込められていなければ作品とは言い難い。
作品とは作者の思いが反映されて作品なので、ソフトに依存した形のイメージそのままではサンプル撮影ということになってしまいます。ちょうどフィルターのサンプル写真を見た時のような感じです。
たとえフィルターをしようていても、仕上げに調整をするとか、他のフィルターを合わせて加えてみるなど、自分なりの味付けがあって作品と言えます。
作家はひとつの作品を仕上げるために何枚ものプリントを焼いて(出力して)最終的な自分の思いを表現できた時に作品にサインをいれるのです。
アンセル・アダムスが、エルナンデスの月という作品を最後に仕上げたのが撮影をしてから約20年後であったという事実が、それを物語っています。
写真の永遠のテーマかもしれないことを書いてみます。
それは、写真は撮ったままのものが写真で画像加工したものは写真じゃない。
ということです。
これは、フィルムカメラで作品を撮る人に多いですよね。
ある意味で正しいと思います。
その作品がドキュメンタリーであれば、画像加工したものはナンセンスですよね。確かに問題外です。
しかし、スナップや風景など作者の意図を反映させる形で表現した作品はどうでしょうか?
よく聞く言葉に
自然な色じゃないよね?
デジタルカメラで撮った作品は、よく言われます。
その通り、というほど仕上げがマズイものは別にして、緑が鮮やかすぎるとか空が青すぎるとかいう人がいます。
展示会などで、緑がどうも自然じゃないな。これデジカメ?って聞く人のほとんどが、デジタルは自然じゃないという概念があるからなんですね。
しかしながら、作品展の作品をデジタルカメラかフィルムカメラであるか分かる人は殆どいません。
なぜなら、今のカラープリントは自家処理しない限りにおいて、デジタル出力だからです。確かに、一昔前(と言っても4~5年前)はデジタルカメラの色域は狭く、コントラストや鮮やかさはフィルムと同じですが、階調が豊富とは言いがたかったですね。
しかし、今やデジタルカメラはRAWデータ(RAWデータそのものもだいぶ進化しています)で撮影し、飛躍的にアルゴリズムが改良されたLightroomとPhotoshopの組み合わせによって出力されたプリントの階調の豊富さはフィルムからのプリントに引けを取りません。
ここまで読んで、なんだデジタル礼賛か?と思われた方、
そうではありません。
色に関してはフィルムはフィルムメーカーに依存していますし、デジタルだってある意味メーカーが作った色ということができます。濃度や階調にしてもそうです。モノクロフィルムで撮影して、暗く潰れたり、明るくて白飛びした写真がそのまま何もしないからいい写真だ、というのでしょうか?
リバーサルフィルムは有効露光域は5EVしかありません。ネガカラーは有効露光域は10EVありますが、プリントに再現する際は5EV程度であるとも言われています。このように狭い調子再現の中で最大限階調を表現するには、プリントテクニックというものが存在することを理解していただきたいのです。
かつて、アンセル・アダムスがモノクロの階調表現においてゾーンシステムを利用して作品制作したように、デジタルはカラー表現に於いてゾーンシステムに匹敵するほどの階調表現が可能になってきているということです。
本来、写真はその内容がどうであるかが評価されるものであって、その作品が
撮ったままで有るか否か?という次元のものではありません。
世界最高価格のついた写真はアンセル・アダムスの「エルナンデスの月」という作品は、正に加工バリバリと言う作品ですね。
そして、皮肉にもこの作品は露出計を使っていないという事実です。
露出計が見つからず、月の明るさが250C/ft2であることを彼が覚えていて、露出公式によって露出を決定し撮影したものであったということです。
これ以上専門的なことは少し厄介という人もいるでしょうから、この辺りにしておきますが、内容の詳細については彼の著書内容をシュミレーションして動画で解説をさせて頂きます。
デジタルカメラの普及と同時に、画像編集ソフトがドンドン進化してきている。今までのデジタルカメラでは、デジタル特有のカラーノイズや、ピクセルのブロック状の画像の荒れ、階調の滑らかさを損なう帯状の階調など、写真としてのクオリティに問題のある場合が多々あった。これらは、単にカメラの問題よりもレタッチ(画像編集)の段階で生じることが多く、写真の質感を無視して処理した結果であるとも言える。しかしながら、カメラとソフトが進化するにつれて、デジタルでの階調再現も、フィルム写真のレベルまで達してきている。特に、最近のRawデータの処理ソフトを使えば、デジタル写真のクオリティは、中判カメラの質感に匹敵するほどである。
フィルムで写真制作する人たちの多くが未だ問題にしているのは、デジタルは画像編集をしているから本当の写真ではない、という意見だ。これは、デジタルカメラで写真をとっている人でも、レタッチをした写真より、レタッチしないほうがいい写真だという認識をしている人が多いという事実からも伺える。
つまり、撮影したままで、プリントの際に一切手を加えないのが本当の写真であると…
写真の持つ要素は、報道(ドキュメンタリー)として、正確に事実を伝えることとの認識からいえば、そういう側面もある。しかしながら、写真を自己表現(アート)として、捉えるならばどうであろうか。
写真だけのもつ独特な世界観は、ドキュメンタリーであると同時にアートであることなので、単に事象を正確に表現することではなく、そこに作者の思いを織り込むことによって、初めて写真として確立するのである。
もちろんフィルムであっても、何もしないということは当てはまらない。プリントの作業はフィルムの状態を見て露光時間やフィルターの組み合わせを決めて、作品の内容によっては覆い焼きや焼きこみなど、部分的に露光時間を変えて全体の調子を整えたり、作者の意図したイメージに合わせる濃度に仕上げるという手順は、写真制作における一般的な作業である。更にベテランともなれば、露出時間をあえて切り詰めてアンダー目に原版を仕上げ、プリント時に、部分的に明度を調整・色調を変更して仕上げのイメージに近づけたプリント作業指示をラボ(現像所)にする。プロ写真家によっては、ラボの作業現場に行き、何度も作業指示を与えて自分の作品のイメージに合うまでプリントを繰り返す人もいる。(プロだから可能であってアマチュアは無理なので、そこで差がつくという人もいる)
かつてアンセル・アダムスが、ほとんどモノクロで写真制作をする理由として「自分自身の創造的仕事には、カラー写真はコントロールが効かないことと、モノクロが生み出すような感情の深さを伝えることができない」(アンセル・アダムス作品集 クラシック・イメージ P5より)と述べていた。彼が提唱したゾーンシステムも、これら写真表現に必要なステップとして行なっていたのである。
よって最初に作品ありきで、仕上げのイメージがあり、そのイメージに合わせたフィルターのチョイス、そして、露出(フィルムやデジタルの表現できるアンダー域からオーバー域までのポテンシャルを知ることは大切)を決定し、現像(フィルム:増減感を含めた処理 / デジタル:Raw現像)処理を行い、プリントで最終的な表現(覆い焼き・焼きこみ・フィルターによる色調整)をする。
まだ、写真に慣れていない人は、作品という概念が希薄なのでストレートに見たまま写ったものが写真と考えている。しかし、写真にとって被写体とは、表現するための素材であって、現実をそのままコピーするためのものではない。
被写体に対峙して、作品のイメージが出来るようになる秘訣は、一流と言われる写真家の作品を多く鑑賞して、写真の真髄に触れることである。一流作品は、パワーとエネルギーに満ち溢れているし、これらの作品を通して、写真の素晴らしさを実感できる。そして、そこから触発されたイメージを元に撮影をする。この繰り返しを実践すれば、作品をイメージできるようになる。