写真は真実を写すから写真というのだ。
長い間、そのように言われ思ってきた人も多いと思う。
しかし、写真の原語はphotograph光を描くという意味で、真実を写すという意味ではない。
よく自然な色が出ている、色が綺麗に出ている。逆な言葉で自然な色とは違う、などという言葉を聞くときに、自然ってどの基準で自然というのだろうと思う。
たとえば、フィルムの色は種類によって全く違う。風景写真では圧倒的にベルビアが人気だが、富士フィルムの説明にも極彩色と謳っている。決して自然な色であるとは書いてない。
しかしながら、デジタルは不自然、フィルムは自然という人は未だに多い。
確かに、仕上げの仕方によっては、かなり違うというよりも違和感を感じる色で出力している人は多いが、それはどちらかと言うと階調のことを言っているのではないだろうか。
つまり、どんなに派手な色が出ていても、色の階調が十分出ていれば許容されてしまう。
さすがに以前富士フィルムが発売したフォルティアは、ポジフィルムであるにもかかわらず、かなりの極彩色になっていたので不評だったが…
写真の歴史を見てみると、常に自然・不自然。写真はこうあるべきという「べき論」がある。
つまり、それだけ新しいテクノロジーとともに表現が変化してくるのが写真とも言える。
ダゲレオタイプの一枚しか無いものを写真として考えていた時代に、ネガからプリントする方式を考えたフォックスタルボットが否定されたように、フィルムからデジタルも同じように批判されていた。
が、現在はそのように考え、発言する人は少数派になってきた。
HDR処理にしても、まだ黎明期なので全ての階調が見えるのは肉眼では見えないから不自然だ、という意見が多いがそのうち写真表現の主流になるかもしれない。
もちろんテクニックも同様で、技術的な要素が入ると不自然などと言われるが、名作と言われた多くの作品は、現像処理・覆い焼き・焼きこみ等、技術的な処理のされた作品が大半である。
現在は、全て公開する時代になってきたので、あらゆる技術が公開されている。
これはyou tubeなどをご覧になれば一目瞭然である。
今までだったら、技術的な要素を公開せずに秘密にしていたものが、ドンドン公開する時代なのである。
もちろん、全てを公開したから撮れるものでもないし、技術を聞いても出来るか否かは別問題であり、技術は感性と相まって完成するもので、そう簡単に真似ることは出来ないことも事実である。
だからこそ、これからの写真に求められるのは、作者の感性が表現された作品であり、その審美性こそが作品の価値を決めるのではないだろうか。
少なくとも写真を撮影している人なら、その写真の中に内在されている作者の意図や感性を感じとることが大切で、技術や場所やデータを第一義にするべきではない。
撮影に関する情報が多くなればなるほど、作品を鑑賞する感性が鈍るし、撮影するときにも同様に感性で撮影をせずに、論理的に撮影するようになってしまい。被写体を見て感じたイメージを表現することから遠のいてしまう。
そのために、できるかぎり多くの時間を、感性を磨くことに費やすことをお勧めする。
撮影然り、一流の作品鑑賞然り、読書・音楽や絵画、映画、演劇など、あらゆるものから感性を刺激出来るものに接して、感性を磨くようにすることが大切である。
ちなみに、感性は年齢とは関係ありませんが、経験を重ねることによって余分な情報が多く入ってくるので、鈍くなることがあります。常に既存のもののみにとらわれることなく、新しいことにチャレンジすることがフレッシュな感性を養うために大切です。
感動できる人生のために、ドンドン美しいものを見たり、聞いたり、感じたりしましょう。