現在、写真の世界はまさに大きな改革が行われているといっても過言ではありません。デジタルが主流になり、従来のような銀塩カメラによる伝統的な表現から、安易で簡単、そして多様な表現が可能なソフトの開発がそれを助長しています。これらの現象を軸に新旧の思いが語られますが、写真の本質は変わらないのというのが、私の持論です。
元来、写真史は改革の歴史であって、そのたびに論争が起きて来ました。ネガを使わないダゲレオタイプからフォックスタルボットによるネガの開発、モノクロからカラーへの変遷、ネガフィルムからポジフィルムによるダイレクトプリントの普及など、数え上げればきりが無いほど改革されてきました。
では、写真の本質とは何か。
これは、好きなスタイルで表現することにほかならないのです。デジタル主流になった今でも、プラチナプリントやバンダイク法でプリントしている作家もいるし、デジタル撮影したデータからネガを作成して、モノクロ銀塩プリントをしている作家もいます。4×5フィルムや8×10フィルムで撮影して、極細密なプリントにより立体的な質感に仕上げる人もいます。要は、何を表現の主たるものにするかが大切なのです。それぞれが好きなスタイルで撮影することが写真であり、機材の新旧は全く問題ないのです。
逆に言うと機材の新旧をとりまく論争は、全くナンセンスです。
写真は自己表現であり、表現とは完成した作品だけでなく、機材のチョイスにはじまり、撮影における時間の流れから仕上げの方法に至るすべてをもって写真であるということです。
最後にひとこと、
とても重要なことです。それは、ソフトに依存した作品は作品というには程遠いということです。見た目に同じような仕上がりになったとしても、作品を仕上げるに際しては作者の「思い」が込められていなければ作品とは言い難い。
作品とは作者の思いが反映されて作品なので、ソフトに依存した形のイメージそのままではサンプル撮影ということになってしまいます。ちょうどフィルターのサンプル写真を見た時のような感じです。
たとえフィルターをしようていても、仕上げに調整をするとか、他のフィルターを合わせて加えてみるなど、自分なりの味付けがあって作品と言えます。
作家はひとつの作品を仕上げるために何枚ものプリントを焼いて(出力して)最終的な自分の思いを表現できた時に作品にサインをいれるのです。
アンセル・アダムスが、エルナンデスの月という作品を最後に仕上げたのが撮影をしてから約20年後であったという事実が、それを物語っています。