デジタルカメラの普及と同時に、画像編集ソフトがドンドン進化してきている。今までのデジタルカメラでは、デジタル特有のカラーノイズや、ピクセルのブロック状の画像の荒れ、階調の滑らかさを損なう帯状の階調など、写真としてのクオリティに問題のある場合が多々あった。これらは、単にカメラの問題よりもレタッチ(画像編集)の段階で生じることが多く、写真の質感を無視して処理した結果であるとも言える。しかしながら、カメラとソフトが進化するにつれて、デジタルでの階調再現も、フィルム写真のレベルまで達してきている。特に、最近のRawデータの処理ソフトを使えば、デジタル写真のクオリティは、中判カメラの質感に匹敵するほどである。
フィルムで写真制作する人たちの多くが未だ問題にしているのは、デジタルは画像編集をしているから本当の写真ではない、という意見だ。これは、デジタルカメラで写真をとっている人でも、レタッチをした写真より、レタッチしないほうがいい写真だという認識をしている人が多いという事実からも伺える。
つまり、撮影したままで、プリントの際に一切手を加えないのが本当の写真であると…
写真の持つ要素は、報道(ドキュメンタリー)として、正確に事実を伝えることとの認識からいえば、そういう側面もある。しかしながら、写真を自己表現(アート)として、捉えるならばどうであろうか。
写真だけのもつ独特な世界観は、ドキュメンタリーであると同時にアートであることなので、単に事象を正確に表現することではなく、そこに作者の思いを織り込むことによって、初めて写真として確立するのである。
もちろんフィルムであっても、何もしないということは当てはまらない。プリントの作業はフィルムの状態を見て露光時間やフィルターの組み合わせを決めて、作品の内容によっては覆い焼きや焼きこみなど、部分的に露光時間を変えて全体の調子を整えたり、作者の意図したイメージに合わせる濃度に仕上げるという手順は、写真制作における一般的な作業である。更にベテランともなれば、露出時間をあえて切り詰めてアンダー目に原版を仕上げ、プリント時に、部分的に明度を調整・色調を変更して仕上げのイメージに近づけたプリント作業指示をラボ(現像所)にする。プロ写真家によっては、ラボの作業現場に行き、何度も作業指示を与えて自分の作品のイメージに合うまでプリントを繰り返す人もいる。(プロだから可能であってアマチュアは無理なので、そこで差がつくという人もいる)
かつてアンセル・アダムスが、ほとんどモノクロで写真制作をする理由として「自分自身の創造的仕事には、カラー写真はコントロールが効かないことと、モノクロが生み出すような感情の深さを伝えることができない」(アンセル・アダムス作品集 クラシック・イメージ P5より)と述べていた。彼が提唱したゾーンシステムも、これら写真表現に必要なステップとして行なっていたのである。
よって最初に作品ありきで、仕上げのイメージがあり、そのイメージに合わせたフィルターのチョイス、そして、露出(フィルムやデジタルの表現できるアンダー域からオーバー域までのポテンシャルを知ることは大切)を決定し、現像(フィルム:増減感を含めた処理 / デジタル:Raw現像)処理を行い、プリントで最終的な表現(覆い焼き・焼きこみ・フィルターによる色調整)をする。
まだ、写真に慣れていない人は、作品という概念が希薄なのでストレートに見たまま写ったものが写真と考えている。しかし、写真にとって被写体とは、表現するための素材であって、現実をそのままコピーするためのものではない。
被写体に対峙して、作品のイメージが出来るようになる秘訣は、一流と言われる写真家の作品を多く鑑賞して、写真の真髄に触れることである。一流作品は、パワーとエネルギーに満ち溢れているし、これらの作品を通して、写真の素晴らしさを実感できる。そして、そこから触発されたイメージを元に撮影をする。この繰り返しを実践すれば、作品をイメージできるようになる。